『やりたいことが見つからない』もしくは『やりたいことが分からない』というSOS。
この言葉は学生時代が終わりに近づき、“就職”もしくは“進学”という次の見えないステージに進む際などに言われるケースが多いのではないでしょうか。
実は私の子供にも言われたことがあります。
その際、
「まだ、社会にもでていないのだから、やりたいことが分からないのは当たり前。とりあえず就職してみてから考えてみれば?」
という無責任な言葉だけは言わないと決めていまいした。
私の息子は、高校卒業後すぐに就職できる高校だったので、就職か進学で迷っていたようでした。彼以外はほとんどが就職です。そして、その高校で学んだのは特殊な学科でもあったため、ある程度の“名の知れた企業”への就職も可能でした。
学年も3年になったとき、当然進路についての話も多くなります。
その際、
「就職はどうするの?」
と聞いたところ、当たり前のように
「やりたいことがない(分からない)からどうしたらいいか分からない」
という言葉が帰ってきました。
私は次に
「君の中の“核”はなんだろう?」と聞きます。(核=大事にしているもの)
長い沈黙のあと
「5歳から12年頑張っている【武道】が自分の中の“核”で、この武道を納得いくまでやりたい」という言葉が自信なさげに本人の口から出てきました。
私は
「それが現時点での“正解”だと思うよ」
と告げたことが思い出されます。
そうなると、自ずとどの道に進むべきなのかの答えが出ています。
私の場合は、恥ずかしながら『誰よりもお金を稼ぐ』というのが、若い時の“核”でした。そうなると今の不動産業界に入ったのも必然だったような気がします。
では、結果的に不正解だったと思う選択はあるのでしょうか。
これは私も経験があるのですが、「自分の特徴が裏目に出る」か「情熱がどうしても湧いてこない仕事」のような、『自分にとって決定的に向いていない仕事についてしまった時』だと思います。(それでも頑張っていれば、何かしら得るものが多々あるはずです。)
もし、不正解の道に行ってしまったとしても、次の道に進めばいいだけなので、肩肘張る必要など全くないことを教えてあげたいですね。
しかし、結果的に不正解の道に行ってしまった原因はなんでしょう。
それは、“自己分析”ができていないからだと思います。
自己分析をしっかり行い“核”を明確にすることが大事です。
ちなみに現段階で“自分の中で核”というものがない場合は、どんな選択をしても正しいともいえます。
現在息子はなんとか大学進学をすることができ、コロナ禍の中、制約がありながらも自分の目標に向けて頑張っています。
また、運転免許の取得や初めてのアルバイトなど着々と人生経験を積み始めました。
このあと、訪れる“就職”という人生の選択をするべき時期にきたとき、大学4年間で彼にとって何が“核”になっているかは楽しみですね。